昭和30年代

 高度経済成長時代へ

昭和20年代を日本経済の復興期とすれば、30年代は成長の時代である。とくに30年代は、神武景気、岩戸景気、国民所得倍増政策の時期を含みながら、経済が極めてダイナミックに躍動した時期であった。昭和31年の経済白書では「もはや戦後ではない。これからの経済成長は近代化によって支えられる」と指摘されたが、その後は「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームによって、高度成長期へと突入していく。

 神武景気から岩戸景気へ

昭和34年〜36年にかけては神武景気よりも更に大きな好景気となる岩戸景気に突入する。実質国民総生産において35年13.3%、36年14.4%、また民間設備投資においても35年40.9%、36年36.8%とそれぞれ驚異的な伸び率を示した。この設備投資ブームの原動力となったのが、主に米国から移入された技術革新であった。とくに戦時中戦後における技術の立ち遅れが大きかった重化学工業では、鉄鋼をはじめとして造船、電力、機械産業を中心として海外から積極的に技術を導入し、技術の向上と生産設備の近代化が急速に進んだ。重化学工業の生産の大幅な拡大は、他方では労働力不足を生み出すとともに、賃金を上昇させた。所得が増えれば、耐久消費財に対する旺盛な購買力に結びつき、そのことが更なる生産設備の拡大を要請するという好循環を生んだ。
昭和35年12月に池田内閣の「国民所得倍増計画」が発表され、所得の増加に支えられた耐久消費財に対する需要が爆発し、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの家庭電器製品をはじめ小型三輪車、ミシン、カメラなどが目覚しく普及していった。大量生産による生産コスト・価格の引き下げが、更なる量産効果を生み、それまで庶民にとって高嶺の花であった耐久消費財が手の届く価格となったことも大きな要因であった。まさに「一生懸命働けば、豊かになれる」というスローガンが、疾風怒濤の高度成長の原動力となったのである。
耐久消費財の普及率
一方、好景気の影で様々な問題も浮上しつつあった。エネルギー革命と呼ばれた石炭から石油への急速な転換が、コスト低下と技術革新による重化学工業の発展をもたらしたものの、各地で公害問題を発生させた。また近代的大企業と中小零細企業・農業における雇用構造の二極化は、規模別賃金格差を依然として解消できなかった。
所得倍増計画ブームによって輸出が増加する一方で、海外は不況で輸出が伸びず国際収支は悪化した。昭和36年5月の金融引締め政策により岩戸景気は終わり、昭和37年には経済白書の中で「成長要因変化による日本経済の転換期が訪れた」と指摘された。その後引き締め政策は短期間で効果をあらわし、米国の景気上昇の手助けもあって37年夏には国際収支は回復、公定歩合は引き下げられた。それ以降日本経済は、国際収支の天井をにらみつつストップ・アンド・ゴー政策を繰り返すことになる。
昭和38年に、日本は関税や輸出制限などの貿易の障害を取り除き、自由で無差別な貿易を促進するためのGATT(ガット)11条国に移行し、39年にIMF(国際通貨基金)に加盟、そしてOECD(経済協力開発機構)への正式加盟を果たす。こうしてわが国は先進国の一員として自由な経済交流の下で経済発展を図ることになったが、一方で資本自由化を警戒して企業は大型合併によって競争力を強化しようとした。昭和39年10月には東京オリンピックが開催され好景気となったものの、国際収支の赤字化で金融引き締めの強化が図られた。これによる景気低迷は日銀特別融資、赤字国債発行による均衡財政の放棄をもたらし、「40年不況」と呼ばれた。

 昭和30年代前半

 業界安定化への歩み

 昭和30年前半まで国内は前年に引き続くデフレによって機械工具商の危機が騒がれた。4月以降も不振が続き5月末から6月にかけては不渡り手形が出るなど、デフレのどん底といった状況となった。各種の会合で取引正常化が叫ばれ、業界安定化への歩みが進められた。
神武景気で空前の好況
昭和30〜32年には、当初輸出ブームによって引っ張られながら、やがて民間の設備投資ブームによる神武景気と呼ばれる大型景気を迎え、日本経済は急速に成長を始めた。産業界全体が空前の好況を迎え、機械工具業界もその影響で好況のうちに推移することになった。

 立売堀新町振興会の創立10周年を祝う

 創立10周年が翌年に迫った昭和30年の10月、宣伝機関として月刊の立売堀新聞が創刊された。これは毎月の各業界の見通しをはじめ会員各社の新製品発売、会員の動静などを掲載し、全国の官庁、メーカー、同業者などに送り、立売堀問屋街の発展を広く宣伝しようとするものであった。
 10周年記念事業の一環であった機械金属実演会は、昭和31年10月12日西区西立売堀電停前の立売堀川埋立地であった約1千坪の会場で開催された。メーカー130社、会員150社の出品は合わせて約3万点に及び、機械工業、建設事業、国民の文化生活に必要なあらゆる製品を網羅し、かつ宣伝が十分に行き届いたこともあり、全国各地の得意先をはじめとして、様々な得意先が殺到し、16日に閉会するまで非常な盛況ぶりであった。また、10周年記念式典は15日午前10時から立売堀北通5丁目南側に特設された400坪もの会場で、多数の来賓に囲まれて盛大に行われた。

 第2回機械金属展示実演会を開く

 昭和32年10月には交通安全自治委員会が結成された。これは、道路上の不法駐車、不法使用が増え、警察の取り締まりも強化されていたが、法規一点張りの取り締まりは営業にも支障をきたすため、営業側が自らの手で交通法規を励行しようというものであった。以後毎年春秋2回の交通安全運動期間中には街頭指導を行うことになった。
 第2回機械金属展示実演会は、昭和33年4月15日午前10時から立売堀北通の尼崎堺線予定地の会場で、大阪府知事らの来賓をはじめ、関連業界代表者、振興会会員ら約400名が出席して、華やかに挙行された。振興会会員とその関連メーカー234社の出品は数万点を数え、7日間の期間中に入場者数は延べ6万人にも達した。
 33年10月には、大阪バルブ継手ポンプ商業協同組合が西立売堀電停西側角に建築していた大阪バルブ会館が完成、商業展示や業者の集合場所として利用され始めた。

昭和30年代後半

 卸、小売問題で論議

 昭和35年の機械工具業界も前年来の岩戸景気と言われた好況下にあったが、市場における販売競争は激化の一途をたどった。特に、この業界の積年の課題としている卸・直需の問題が大きくクローズアップされた年でもあった。その後、大阪では会合を重ねたものの、この問題は道義的問題であり簡単に解決することは難しいとして、今後はいっそうそれぞれの立場で「商売の道」を探求していくべきであるという結論に達した。
 昭和38年は当初の予想を超えた鉱工業生産が大幅に伸び、在庫投資、設備投資が増大して景気の上昇過程を続けた。しかし、この景気の回復がやがては輸入の増大を伴い、国際収支の赤字となり、その年の年末には金融引き締めが再び行われることになった。機械工具業界では、熾烈な販売競争が展開され、立売堀を中心とする有力問屋が営業所、出張所等の全国展開を開始し、量産された商品を売り捌くためにセールスマンに“売って売って売りまくれ”とハッパをかけたのもこの時期であった。
 しかし、金融引き締め効果により企業倒産が続出、機械工具商の中堅どころの倒産が相次ぐなど、厳しい状況が続いた。他方で、80%以上の貿易自由化が実施され、単なる景気・不景気にかかわらず、国際市場での競争の渦中に飛び込んでいくことになる。

 初の工作機械見本市

 世界30カ国の技術と商魂を一堂に集めた第5回大阪国際見本市が、昭和37年4月5日から25日までの21日間、大阪市内の三会場で行われた。開会式当日には当時の皇太子ご夫妻も来場され、人気を盛り上げた。また、この春の国際見本市に引き続き、わが国初の専門見本市として第1回日本国際工作機械見本市が10月10日から大阪国際見本市港会場で開催され、日本をはじめ米・英・ソ連・西ドイツなど18カ国が参加し、内外の機械工具類の展示品が15,000点に至るという世界最大規模のものであった。日本の工作機械も技術水準が格段に向上したものの、価格面においてまだまだ先進国に見劣りしていた。しかし、この頃から国際化時代を迎えて立売堀・新町地区の商社にも貿易に力を入れるところが次第に増え、児玉商事、喜一工具、山善機械器具(現山善)、五味屋(現ジーネット)などが相前後して輸出部を設置するか、その増強を行なった。

 新社屋の完成相次ぐ

昭和37年に四天王寺で物故者合同慰霊祭を共催したのが契機となって、立売堀新町振興会や大阪機械工具商連合会を含む大阪機械金属商16団体が昭和38年2月に大阪金属機械商業総連合会を結成することになった。
戦後直後に建設した店舗はすでに改築の必要に迫られていたため、立売堀地区の中高層による不燃建築化を推進する立売堀不燃化促進会が結成された。その事業は順調に進み、昭和37年4月には立売堀不燃化モデル地区の第1期工事の4社(藤江、川辺建設、福松産業、島田商店)共同ビルの落成式が、38年10月には第2工事の5社(戸田商店、九喜ポンプ工業、江守バルブ、藤澤鋲螺、内村商店)共同ビルの落成式が、続いて39年9月には第3期工事の5社(木村水道ポンプ、前田伝導機、丸富ゴム、大和、三輪)共同ビルの落成式が次々に挙行された。これらの事業以外にも、30年代初頭から増え始めた立売堀地区の本社屋新築化の建築ラッシュが、38、9年頃にはピークを迎え、立売堀の町並みは一新された。
前ページ 次ページ